学問の自由の砦としての京都大学の終焉

Date: Mon, 7 Nov 2005 09:43:46 +1200
 選考委員の自然科学部門の顔ぶれを見ると、村上陽一郎さんも養老孟司さんも元東大教授です。毎日新聞で書評を書いた藤森照信さんは現役の東大教授。中西さんは東大で長年助手をやっていて、「環境リスク学」によれば首になる覚悟までしていたといいます。今、それを称えるのは東大ゆかりの人であり(米本昌平さんは京大出身)、その主張を「たいへんな間違い」(原告代理人のプレスリリース)として裁判官の裁きを仰がせようとしているのが京都大学の教授ということになります。さて、この構図を見て、どちらが学問の自由を守っていると世間が思うでしょうか。レッテルだけで東大=権力と判断する人もいるかもしれません。しかし、これは思想信条以前の問題だと私は思います。
 京都大学は、建学以来、学問の自由を何よりも重視していたと思います。それが存在意義だったとさえ思っています。言論には言論で、世論には世論で争い、学説は学界で論争するのが常識だと思います。米本さんの選評にもあるように、今回も孤独に耐えて、信念をつらぬいたことがたいせつということになるでしょう。