イエスキリストと漁業の関係

Date: Mon, 22 May 2006 11:49:29 +0900
黒倉壽さま c○○さま
Ship & Ocean Newsletter 139号、興味深く拝読しました。
 「山上の説教」が漁業をたとえているというのは初耳でした。P139に書かれた水産業・水産学への意義は、まさにご高説どおりと感激しました。ありがとうございます。
 他の出典を探して、「イエス、漁業、ガリラヤ」で検索してみました。
宮城学院中学校高等学校『しかし、お言葉ですから宮城学院長 深谷松男
聖書:ルカによる福音書第5章1〜11節についての解説記事があります。
「今日もゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖畔)に立つイエスを見つけました。 ・・・イエスは岸辺に寄せてあった1艘の船に上がって、そこから話し始められました。 
さて、事はイエスの話が終わった所から始まります。イエスはシモンに対して、沖に漕ぎ出して漁をしなさいと言われたのです。明らかにイエスは、お話をしておられるうちに、シモンたちの不漁とその落胆し疲れた様子ないし空しい思いになっていることに気づかれたのです」
・・・「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。」と答えます。彼らは親代々の漁師です。ガリラヤ湖の魚と漁業については知り尽くしているのです。しかも、イエスは大工出身であって、漁業については素人です。シモンは、「わたしたちは、漁業の専門家、特にガリラヤ湖を知り尽くしている者として、その知識、経験、技術を尽くして夜通し働きましたが、収穫は皆無でした。今日は全く不可能なのです」と、答えたのです。
 しかし、そこで、シモンはもう一言進んで付け加えて言います。「しかし、お言葉ですから、網を降ろして見ましょう」と。 確かに、シモンは高熱に苦しんでいた姑をたちどころに癒したイエスの力を間近に見ていましたし、自分の船に乗って権威ある教えを語られたのを、最も近い立場で聞いていますから、イエスに対する尊敬の思いを高めていました。・・・沖に出て、網は投げ入れられました。漁は夜中に行うものであります。網も洗い終わって、日が高く上がった時間には、たとえ魚がいるとしても、網にはごくわずかの魚しかかからないでありましょう。しかし、予期に反して、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになり、2艘の船で引き上げ、船が沈みそうになるほどの大漁であったと記されています。」
 黒倉さんの仰るイエスが漁組組合長(たしかにこれは、必ずしも漁民ではない)という表現が妥当かどうかは確かめられませんが、ガリラヤとイエスと漁業が大いに関係していることはよくわかりました。
聖書の世界─新約聖書編 」には「ガリラヤ湖で漁をする漁船 イエス時代にも漁業は盛んで、イエスの弟子ペテロも漁師だった。」とあります。
「イエス、漁業、山上の説教」 で検索すると 農業と漁業のたとえという表現がいくつかのサイトに見られます。しかし、野生生物の営みが漁業の営みと同じという解釈は(漁業者なら当然感じることではあるでしょうが)、まだ発見できません。西洋キリスト教会が、今そのような解釈を獲っているかどうか、興味があります。
ありがとうございました。たいへん勉強になりました。