見えるリスクは許容できる?

徳永 哲也 【週刊読書人】(2006年2月3日号)「安全な暮らしを守るために - 環境問題を論じた内容豊富な書 -」を読んだ。
内容豊富と取り上げていただいて感謝する。ただし、私への批判が載っているので、この場で反論させていただく。

悪影響があるかもしれないものは全て排除するという「ゼロリスク論」に、何人かの著者が言及している。中下は、ゼロ目標を掲げることによってリスクをやむなしと放置せず低減化の努力が持続される利点を述べ、松田は、全てのリスクをゼロにはできず費用対効果を軸に優先順位をつけざるをえない旨を述べている。金子が、リスク発生に被害拡大防止システムで対応する趣旨を語り、鬼頭が、リスクをも引き受ける信頼の社会関係の構築を語ることによって、一応の落としどころはあるようにも思える。
・・・自動車事故の死亡率を引き合いに出して有害化学物質の規制に労力をかけることを批判する松田の論は、見えるリスクと見えないリスクを同列に論じていて説得力に欠けると思われ、その点では鬼頭の論に賛成したい。

 リスクを低減する努力は私も同感だ。ゼロまでといわないだけのことである。それが不可能であることを述べた。そして、引き受けるリスクに差があることも同感だ。
 しかし、「見えるリスク」よりも「見えないリスク」を重視するというのは賛成できない。「見えないリスク」を無視するなという批判ならよくわかるが、なぜ「見えるリスク」よりも重視するのか。
 私は以下のように書いている。

10万人に一人の死亡率をもたらすかもしれない化学物質の規制を主張する者が,1万人に一人が毎年死んでいる自動車事故をもたらす自動車を運転している.自動車は,運転者自身が死ぬリスクだけでなく,無関係の歩行者などをひき殺すリスクも低くはない.しかも,化学物質のリスクの大きさは必ずしも実証されたものではないが,自動車事故のリスクは統計的に明確に証明されたリスクである.

 「見えないリスク」は、現在では外挿によって評価される。たとえばダイオキシンの発がん性は高濃度暴露で半数致死濃度などから外挿して10万人に一人のリスクが基準となる。本当にこれだけのリスクがあるかは実証されていない。それが「見えないリスク」であり、外挿によって「見えるリスク」と比較する。その手法に問題があるというのはそのとおりだろう。しかし、過大評価になっても、過小評価にならないようなさまざまな措置がとられている。
 私が自動車事故を引き合いに出したのは、ゼロリスクが不可能であることを理解してもらうためであって、それ以上のものではない。そのときには自動車には便益があるという反論があった。だから、無関係の歩行者をひき殺すリスクも存在すると述べた。
 ついでに言えば、私も鬼頭さんの「リスクをも引き受ける信頼の社会関係の構築」に賛成だ。私は自動車を運転する。同時に、ダイオキシンのゼロリスクを叫ばない。これは私にとっては同じことなのである。引き受ける甲斐(社会的リンク)があるかどうかの問題である。私は、ダイオキシンの発生源とも社会的なリンクがある。
 見える脅威 の対処よりも 見えない脅威 を重視するという思想は、 内政批判を外憂に置き換える権力者の手法と同じである。