シカを食べるのは残酷か?

Date: Tue, 10 Oct 2006 09:25:02 +0900【一部加筆】
○○さん c○○先生

しかし、数をコントロールするために、殺して、鹿肉として食べてしまう、熊の肝を薬に使うというのも残酷な気がします。「里山」における野生動物に対する倫理観の整理も必要かな、と感じます。

 【個体数を】制御するために行うのではありません。 もともと、人は野生動物を利用していたのであって、それを家畜にすることを覚えたのです。
 知床では、野生のサケマスを堰を作って丸ごととり、孵化場で育てたものを放流しています。それなら、残酷でなく食べることができるのでしょうか?鶏舎の鶏と野生鳥獣と、どちらを食べるのがより残酷なのでしょうか?
 鬼頭秀一さんは、これを「切り身」の文化といいます。肉を食べるときに、その肉が生きていたときのこと、屠殺の現場を想像できなくなっている。【飼う人、屠殺する人と食べる】人のつながり、生活のつながりを取り戻すことが「自然保護を問いなおす」(鬼頭著、築地新書)という「社会的リンク論」を提唱しています。私はそれを支持しています。【】
 元来、自然はきわめて危険な環境でした。人間にとっても、村から一歩 山へ出れば危険でした。しかし、現在では原生自然はほとんど無くなり、【】安全と誤解する自然に囲まれています(もちろん、危険は残っています)
 人は多くの上位捕食者を駆逐し、自分にとって安全な「森」を作ったため、一部の野生鳥獣は、人間にとって安全にした二次的自然という安住の地を得て、数を大発生させています。そして、人間がかつて仕分けていた村と山の違いを、彼ら動物も「理解せず」に(あるいはよく理解しておいしい畑のある)人里に踏み入っています。【人が狩猟をやめたために、人間と人里を怖がらなくなってきています。】
 いま、鬼頭秀一さんの環境倫理研究会では定期的に(実は10月8日だったのですが)倫理学者が生態学者を招いて議論をしています。【】この勉強会の議論は極めて熱いです。2年前の初回は「松田の証人喚問」(報告書の表現)状態でした。興味ありましたら送ります。 しかし、まずは上記の新書をお読みいただければ、およそ理解いただけると思います。
 決して昔に戻せというのではありません。狩猟がほとんど行われなくなってから、日本は【あるいは外国の一部、特に自然公園地域でも】まだ半世紀たらずしか経っていない。今の状態では人と自然はうまく共存できないのです。それを、より適切な状態に修正したいと思っています。
 【なお、倫理観の再構築の欠如は自然保護だけではありません。生命倫理においても、日本は解決すべき問題が山積しています。昨日読み終えたばかりですが、米本昌平「バイオポリティクス」(中公新書)は必読文献です。彼もまた、欧または米の倫理観に従えという主張はしませんが、キリスト教社会とは別の次元で日本とアジアが解決すべき問題を具体的に挙げています。】