松永澄夫編『環境:安全という価値は・・・』

Date: Wed, 23 Nov 2005 17:15:13 +0900
(長文失礼)【11月21日に引き続き上記書籍の紹介です。】本書を編じた東大文学部の松永澄夫さんは、「厄災の種別」のという節の中で自然と(他の)人間が、恵みであると同時に危険なものになりえると論じ、安全優先の二つの意味、すなわち(1)ある危険を潜ませたことはしないという意味と(2)ある厄災が生じる危険度を減らすための安全対策をその対策のもつ別の面(コストなど)での否定的評価にこうして高ずるという意味に分けて捉え,「第2の意味での安全優先がいつでも,そして,まず考慮すべきこととなる」と論じています(35頁)。
 結論として、(1)環境に係るもろもろの危険に気づくこと,気づかせることという情報の役割、(2)積極的な安全策をとることが,他の評価尺度の採用と競合するのではなく,どのような安全策がありえるのかを促していくことが重要と述べています。そして、そのためには「信頼こそが肝要」であり、信頼がある場合には生活者が自分たちの生活を望ましい方向に変えていく柔軟性を持つ」と信じると締め括っています。
 だいたい、私や鬼頭さんの考えに近いと思います。
 テレビでも有名な金子勝さんは「リスクの政治」と題して,ゼロリスク否定論者の中西さんをまず紹介し,その批判の根底には科学者への不信があるが,「本質的な議論のようには見えない」と中西批判者にまず釘をさしたうえで、彼なりの中西批判を試みています。そして彼の専門の金融リスクの失敗例を挙げながら,リスクをヘッジするためにリスク計算を緻密にして効率化しようとするほど失敗すると述べ(209頁)ています。そもそも、リスク管理は権力の都合のよいように結論付けられるとも述べています。ただし、科学が誤ることもあることを前提とした上で重要なのはtraceabilityであるとし、それはゼロリスクを否定した上で,事件発生時に迅速に誤りを修正するfeedbackが重要であると述べています。
 鬼頭さんもゼロリスクはありえないところから議論し、彼の社会的リンク論を展開しています。最後に、彼の中西批判を再批判した加藤尚武さん(環境倫理学の長老)への反論を寄せています。この中西リスク論をめぐる加藤−鬼頭論争については、別の機会に論じます。
 と言うわけで、私は文学部の演習の中で十分自分の見解が他の執筆者の意見と融合したと手ごたえを感じています。ただ、熟読していないので、他の印象をもたれる方もいるかもしれません。興味ある方は読んでみてください。率直な感想を歓迎します。
(加藤ー鬼頭論争への意見については、近々公開します)