自然の権利

 要するに、現在の裁判制度では、貴重な自然が損なわれようとしているときに、それを第3者が(客観訴訟で)止める仕組みがない。民有地については、行政もなかなか止められないということです。自然の権利運動の創始者であるCristopher Stoneにも会いましたが(なんと、捕鯨に理解を示す国際法学者として外務省が日本に招待講演させた)、本気で自然に人権があると思っているわけではなく、上記の解決策として提案したものです。それは日本の自然の権利運動も同じだが、一般には、自然に人権があるという運動だと誤解されている。しかし、この私の認識は彼らにも共有されていません。彼らの一部は自ら自然に人権を認める行為と位置づけている。また欧米では自然に人権を認める運動だが日本だけがまともだと言っている。
 それと、その裁判で守るべき対象が妥当かどうかは別問題です。
 どんな自然にも価値はあります。守れるものなら守ろうとするかもしれないが、理想を言っても実現しなければ自然は守れない。それなら妥協して少しでも守ろうとするのがふつうです。その妥協にかかわったかたは妥協した責任があります。しかし、それ以外の人がさらに吹っかけてくると言う構図はありえます。
 しかし、他人の財産処分を制限しようとするからには、自由主義を超えるほどの価値がその自然になければなりません。環境に悪いことをしていない人はいません。それを無視すれば、土地開発はおろか農林水産業はすべて不可能になります。
 環境影響評価法では、方法書段階から事業予定地が変更になり、新たな市町村が加わるときには、方法書段階からやり直せと言う施行令があります。利害関係者すべてが方法書段階から合意して進めないと、途中で評価基準を蒸し返されるからです。これは、そのようなトラブルを避けるために必要です(愛知万博では途中で長久手会場を加えたのに施行令を無視して進めたために、結局は大騒動になった)。
 単に自然の代弁者としての原告適確(そんなものは現行法にはない)だけでなく、その自然の代弁者として「原告は最もその自然にかかわりある人といえるのか」が問われえます。それなら、過去に交渉した相手はなんだったのかと言うことになるでしょう。