「日常生活のクリティカル・シンキング−社会学的アプローチ」

木村邦博著「日常生活のクリティカル・シンキング社会学的アプローチ」(河出書房新社)
 社会学の「教科書」は、えてして門外漢にはとっつきにくい。しかし、この本はたいへんとっつきやすい。すっと読める本である­。なぜなら、テーマが日常的でわかりやすい。初めに冬季五輪のジャンプなどスポーツの国際ルールが、日本が金メダルをとるたびに日本選手に不利なように変わると­いうのは本当かという問題、次に非科学的な血液型性格学はなぜ流行るかという問題、後のほうでは離婚する家庭と非行少年が出る家庭の相関という「生態学的虚偽」­に関する議論などがある。後半の事例は他の社会学の本にも出てくるかもしれないが、最初の二つは斬新だ。これらの話題を通して、社会学の基本概念と社会調査法の­基本が習得できるようになっている。
鈴木大地のバサロ泳法禁止が不利といえないというのは納得した。しかし複合ジャンプ­の配点変更や純ジャンプのV字ジャンプの禁止と許可は、私は日本トップ選手への嫌がらせだと以前から思っていた。その認識は本書を読んでも変わらない。
最後はかなり「自虐的」反省から、社会学に対する批判を列挙している。社会学とは当たり前のことを難解な言葉でいうだけ(物理学者ファインマン)、価値や実践の­問題を避けている(コメディアンの小堺一機、ジャーナリストの本多勝一倫理学者の加藤尚武)。そして社会学者から想定される7通りの弁明を紹介している。現実­を生き生きと語るのではなく無味乾燥な数字で語る、日本では欧米の学説の受け売りだけという批判もある。
けれども、その内容には賛成できない。論文が客観的な記述に終始して無味乾燥なことが、果たして悪いことだろうか。その反論として、皆が現場に密着した研究をし­ていないという反論も意味不明だ。現場に密着した研究をして、結果を淡々と客観的に論文にするのが普通ではないか。もちろん、講義や市民向けの講演、あるいは一­般向けの解説文で無味乾燥ではいけないと思う。その違いをわきまえることは大切だ。しかし、社会学の方法論自体を否定する必要があるのか。門外漢が触れるのは原著論文ではなく、本や講演のはずである。
私の率直な印象では、多くの社会学者は、本当に社会的に重大な問題、具体的な問題に真っ向から取り組んでいないという不満がある。スポーツルールの差別や血液型­は、重大とはいえないが、問題としてはわかりやすい。そのような問題に明確な成果を挙げる社会学者は、他の重大な問題でも専門家として良識あるコメントを発する­ことができると思う。
この本からは、社会学者が、自分の学問を判りやすく伝えよう、世間の批判に答えようという真摯な態度はよく伝わってくる。この本を読んだ社会学の学生、あるいは­この本を書く際に著者に影響を与えただろう若手の学生たちには、大いに期待できると感じる。著者は副読本と序文で位置づけている。その言葉通り、この本ならば、­他分野の、例えば私の学生に社会学の入門書として一読を勧めることができる。