保全生態学 論争

Date: Tue, 3 Jan 2006 13:56:18 +1200
○○さん ○○さん c○○さん
 「生態学会の目指すところ」については、生態学会誌で扱わなくても、生物科学で松田の原稿と工藤さんの批判(保全とは何か?−松田氏の批判に反論する。生物科学56(4))がありましたので、それでだいたい尽きていると思います。これは2004年夏の生態学会釧路大会後の議論を収録しているので、いまさら釧路大会の記録を学会誌に載せても、時機を逸していると思います。
松田裕之 (2005) 保全生態学における価値判断. 生物科学. 56:222-227. 及び
工藤慎一(2005)「保全とは何か??松田氏の批判に反論する」生物科学57(2)(要旨:「保全」は「我々の振る舞い方の一つ」であり,いかに振舞う「べき」かに科学の規範内部で解答しようとすれば,それを意思決定の理論枠で考えざるを得ない。しかし保全生物(生態)学は,その必要条件を満たしていない。にも関わらず,日本生態学会は要望書の形で保全の必要性を公に主張している。自然科学で扱えないことを,自然科学の学会が公に主張することは,もともと科学の帰結でないものに「科学的」という「鎧」を与える行為なのではないか?「自然科学の規範内部にあるか否かを厳しく問う」,この姿勢を守ることこそが,自然科学の学会の,そして自然科学者の社会的な責任なのではないか?)
 まず、工藤さん(2005)は

松田裕之氏は日本生態学会釧路大会の企画シンポジウム「日本生態学会の目指すところ」の議論を踏まえて,「保全生態学と科学」,「基礎科学と応用科学」,さらには「学会の提出する要望書のあり方」に関する筆者の主張に批判を投げかけた。

と書いています。生物科学の松田(2005)では、以下の部分のみで、工藤さんの主張に言及しています。特に工藤さんへの批判に主眼はありません。

「複雑極まりない我々社会の緒要素とのトレードオフ構造を網羅した意志決定モデルを構築することになろう。(中略)私には保全生物学の議論や主張は,この手続きをふんでいるようには思えない。したがって,これらは自然科学の範疇にない」(工藤慎一、私信)という批判が寄せられた。彼が指摘するような意思決定モデルは社会科学の範疇であり,たしかに自然科学ではない.水産学では管理手続き(management procedure)と呼ばれる分野がある。管理計画をどのように作り、どのように資源評価し、修正することを合意するかを研究対象とする科学である。水産学だけでなく、環境科学全般で合意形成の手続きに関する科学的検討が進んでいる.矢原ら(2005)でも、目的を科学的に一意的に決められないことが強調されている(松田2004)。(中略)したがって,「この手続きを踏んで」いないという指摘は当たらない。ただし、それは社会科学の範疇を含むものといえるだろう.このような研究成果は水産学会で発表される。環境科学でも取り扱う。社会科学的な内容を含むからといって、学会での発表が好ましくないという主張は、学問の自由な発展を妨げる。

 工藤さん(2005)はこの部分に対して”しかし,規制科学の扱う意志決定モデルは,その概略すら説明されていない。”と述べています。すなわち、意思決定モデルが無いから「矛盾や飛躍」があるという主張でしょう。
「我々の生活や社会システム全体をデザインする「保全」という意志決定の対象とする系は,これらより遥かに,どうにもならない程巨大なものであろう」と述べていますが、当然のことながら、生物の適応行動も、巨大な問題を単純化したときに適応的と解釈される行動を取っていると理解されているはずです。
 そのほかの工藤さん(2005)の主張は、この「意思決定モデルが無い」という主張も含めて、2004年の生態学会釧路大会のシンポジウムで主張していたことの繰り返しに見えました。
私はすでに下記のように一昨年の釧路シンポの前にHPで論点を私なりにまとめたつもりです。工藤さん(2005)には、これを受けた議論はほとんどありません。議論は完全にすれ違いです。

保全生態学ならびに自然保護の論拠は科学的に確立されているか? 
>未熟な科学だからこそ,基礎科学に根ざした生態学会での議論が必要なのである.

 どこかどう未熟かという点は彼なりに指摘していると思います。ただ、その指摘は釧路大会のときから何も進んでいるようには見えません。目的関数がなければ人間は行動できない(すべきでない?)というのは経済学の理論のように見えますが、人間は実際に行動しているのですから、スコラ論議です。まさに、進化生態学の黎明期に「生物は最適に生きているか」という議論に等しい。実際の保全活動がどのような価値体系で担われているかを分析できていないという指摘ならば意味があります。しかしそれはまさに学問的な議論であり、生態学会が要望書を出すことの是非の問題ではありません。現実に、オーバードクター問題などの要望書も生態学会としては出すべきではないと工藤さんは主張したのですから、それは保全生態学の科学としての欠陥とは関係ない議論だと思います。
 要望書を出すことへの異議という結果と、その根拠としての「保全生態学の科学的欠陥」は全く離反していると思います。これらを別のこととして議論するならば、いずれについても議論は可能です。釧路大会での議論を見ても、上記の生物科学の要旨を読んでも、私は工藤さんが両者を区別しているようには見えません。
 私は、「科学の鎧」を偽装したような要望書が全く無いとは思っていません。個別には問題にできると思いますし、意思決定方法についても議論できると思います。しかし、私は自然保護に関する要望書一般を出さないことには反対です。
 今年もよろしくお願いします。