土壌生態系リスクワークショップの報告

Date: Sun, 16 Oct 2005 10:10:54 +1200(一部加筆)
○○さん。横浜国大21世紀生態リスクCOE主催の「国際ワークショップ『土壌生態毒性学に基づく環境リスクアセスメント』」は定員上限の40名参加して横浜国大みなとみらい教室が満員となり、盛況でした。○○さんも参加していました。

  • 西洋人は土壌生態系の生態(系)リスクの話を正面からしていた
  • 東洋(中国・台湾・韓国・タイ)人はほとんど健康リスク(公害)の話だった
  • 私はもろに健康リスク対策のほうが重要だと言った。一部の貴重な自然を除いて、生態系対策のほうが人間対策より厳しい基準になることはないだろうといった。二人の西洋人は同意せずに身構えていたように見えました。
  • また、私は現在の化学物質の生態リスクは健康リスク評価手法の模倣であり、全国一律の濃度を定める傾向にあるが、生態系評価は本来各地域の固有性を守るものであり、オーダーメイド(これは日本語で、英語ではhandicraftといったが、正しいだろうか)の基準を作り、地域社会の合意を得て進めるべきであると述べた。言葉は少し違うけれど、従来型?の生態リスクからの脱却の必要性は、Janeck Scott-Forzmand氏も力説していた。

その際、私は

  • 科学者は利害関係者として振舞うべきではない
  • 基本認識を明確にすべきである。放置すると将来何が起きるかを広い視野を持って社会に提示すること
  • 合意した目的について、管理計画がそれを達成できるかの実現可能性を評価すること

などが重要であると力説した。Nico van Straalen氏も大筋ではこれを認めていたが、やはり科学者が当事者として振舞うことも必要だとも述べていました。あまり理解されなかったようです。守るべき対象として生態系機能、生物多様性、人間の健康を列挙していましたが、社会が決めるという私の意見には懐疑的でした。東洋人からは、人間の健康が一番ではないかと順位をつけるように注文がつきました。これは受け入れたと思います。
 環境問題というのは南北問題でもあり、北が不必要に厳しい基準をつけるのには南の開発を制御するという、現代版の植民地主義政策の性格があると思います。その側面があること自体を、西洋からの参加者はあまり自覚していないように思いました。
 よく言われるように、たとえば亜鉛濃度について、感受性の高いヒラタカゲロウの生存率や繁殖率に1割の影響が実験結果で出たからといって、水道水の健康リスクよりも厳しい(低い)濃度基準を全国の河川に課すようなやり方には、私は賛成できません。その濃度で蜉蝣が河川からいなくなるかといえば、その2倍程度の濃度でもちゃんといるそうです(私の修士課程の院生が研究中)。しかし、その数倍の濃度でもいるかといえば、やはり数が減るそうです。とすれば、望ましい濃度基準はおのずと決まってきます。水道水より厳しいことにはならないでしょう。また、そもそも自然状態で高濃度の場所もあります。そこには、もともと蜉蝣は少ない。その場所に1gでも追加の亜鉛を流してはいけないかといえば、それも変でしょう。
 この例だけからは判断できないかもしれませんが、人間の健康リスク(個人への影響)に気をつけていれば、生態系(個体群や群集の存続への影響)もそれなりに守られると思います。人間は必ずしも脆弱な生物とはいえませんが、死亡率で見て10万人に1人への影響は、他の生物の個体群の存続可能性への影響に比べて、ずっと厳しい基準のはずです。今は生態リスクも個体(室内実験による生存率や繁殖率)への影響を見ているから、上記のような齟齬が生じるのです。
 そもそも、環境リスク研究者にとっては、多くの健康リスクについては対策を行政にすでに採らせています。だから生態リスクという新たな課題に注目している側面があると思いますが、社会にとって余計なお世話になりかねない。
 しかし、貴重な生態系を守るには、その地域の環境基準を厳しくすることは重要だと思います。日本の名水も他の一級河川も、同じ濃度基準で守ろうとする発想自体が間違っていると思います。これは愛知万博海上の森を視察して感じたことです。ある生態学者と同行したら、随所で沢の水を飲んで、「海上の森は水がうまい」といっていました。万博環境影響評価の水質項目を見ても、「飲んでおいしい水を守る」とはどこにも書いていませんでした。それを守るかどうかは地域社会の合意ですが、守るなら、もっと厳しい水質基準が必要だったでしょう。その地域の自然の価値をどう認識し、どう守るかを地域社会の合意とともに決めていくのが、これからの生態リスク管理だと思います