「リスク共生」GCOEでの議論

最近、横浜国大では「リスク共生」という言葉が多用されている。この言葉を最初に使ったのは私だと思います。以下に、「生態リスクGCOE」準備段階(2006年8月7日)で私がメンバーに宛てたメモを転記します。この用語は私も参加したJSTリスク共生型環境再生リーダー育成」プログラムの課題名になり、現在では横浜国大のリスク共生社会創造センターの組織名、先端科学高等研究院のキーワードとなっていますが、残念ながら生態リスクGCOEメンバーは現在の2つの組織にほとんど参加していません。
 いずれにしても、当時の私のリスク共生の考え方を紹介します。

2.1. リスク共生
 リスク共生とは「人間がリスクと共生する」という意味である。リスクを避け続けるのではなく、リスクがあることを必然の前提として、それとうまく付き合い、むしろ積極的に捉え直した新たな自然観、死生観、社会観を構築する礎とすることができる。意外にも「リスク共生」という言葉はまだ使われていない。文科省の「人・自然・地球共生プロジェクト」 など共生を標榜した企画でもリスクは論じられているが、Yahoo, MSNで"リスク共生"(引用符付) の検索件数は事実上0である(8月1日現在)。この両者は矛盾する用語と思われているようである。
 その理由の一つは「共生」という言葉自身の胡散臭さにもある(松田「共生とは何か」現代書館)。海外では環境保護、環境調和の標語としてはほとんど用いられていない。しかし、逆に言えば、「リスク共生」と言い切ることによって、多様な分野、多様な価値観の人々に、強烈なメッセージを送ることが可能であろう。
 むしろ、「管理」「マネジメント」という語感は、日本では一部かなり否定的なイメージで捉えられてきた。野生鳥獣行政ではわざわざWildlife Managementに「保護管理」という訳語を定着させた。また、GovernanceとManagementとの違いも普及していない。漁業を始め多様な分野で、日本は法規制よりも生産者の自主規制(欧米の最近の概念で言えば当局との共同管理Co-managementに近い)が大きな役割を果たしてきたこととも関係するだろう。したがって、「リスクマネジメント」という用語も、報道関係や環境団体、消費者団体などをはじめとして十分に認知されてこなかった経緯がある。それは予防原則を重視する欧州でも同様であるが、日本における軋轢を欧州とは別の、マネジメント自体に対する違和感もあるものと思われる。
【中略】

  • ゼロリスク志向の否定:人間活動がある限り、自然への負荷の恐れをゼロにすることは不可能である。私たちが目指すものは、人間による生態リスクを科学的に勘案した新たな社会標準の提案である。すなわち、人間の便益と生態系へのリスクの兼ね合いを科学的に比較考量する方法の提案である。
  • 自然保護による人間社会のリスク評価:逆に、近視眼的に見れば、自然を守るために人間社会が不便を強いられることもある。クマとの共存を図るために人々が脅威にさらされ、ダムを作らないために防災上のリスクが生じる。我々は人間活動が生物多様性と生態系に与えるリスクだけでなく、自然に対する配慮によって人間がこうむる損失やリスクを評価し、その合理的許容水準を提案する必要がある。

それらを支える新たな技術・科学的手法は、以下の6つである。

  1. 生態系アプローチ:単一種管理から脱却し、漁獲対象種や害獣などの注目種に加えて、それと相互作用する他種も含めた生態系全体を視野に入れた管理。環境保全と資源利用のバランス、利益の公正で公平な分配を図るもの。生物多様性条約などでも推奨されている。
  2. 順応的リスク管理:未実証の前提で管理計画を立案し、不確実性を考慮したリスク評価を行い、管理の実施過程での継続監視により方策と認識を更新する新たな管理手法。
  3. リスク便益分析:環境経済学では費用対効果だけでなく、確率論的リスクと経済的便益の関係を議論している。主に人間の健康リスクに関する分析だが、生態リスクに関する分析も始まっている(岡敏弘「環境政策論」岩波書店)。
  4. 市民参加型合意形成:上意下達型の政策決定、科学的知見による価値判断ではなく、リスクをどこまで受容するかを利害関係者自らが選択して合意すること。進化ゲーム理論(適応複雑系)、リスクコミュニケーション、Public Involvement、情報公開、共同管理などの鍵概念を用いる。
  5. リスクガバナンス:
  6. 知的情報基盤:現在の環境科学は、自ら観測調査したデータを利用するだけでなく、他の研究者、行政機関、民間が集積している膨大なデータを発掘し、整理し、解析することによっても進められている。このような知的情報基盤整備を用いた科学研究は、日本は大きく立ち遅れかけている。けれども、日本には膨大な非電子化情報が埋もれており、地道なルーチンワークとしての環境調査もまだ健在である。カナダのRansom Myers教授がマグロの9割減少説を提唱したのも、日本のマグロ漁船の詳細で膨大な漁獲記録の発掘の賜物である。空間情報を考慮したデータベースを駆使する地理情報システム(GIS)は科学技術者にとって20年前のパソコン程度の普及率であり、まだ有効活用し切れていないが、今後は誰もが駆使する必須技法になるだろう。こうした情報の集積、発掘、それを使いこなす技術をもった環境科学者は日本に少ない。それを育てることが本COEの目的の一つである。