沖大幹著「水の未来」岩波新書 感想

 「気候変動対策はグローバルな問題だが、水資源対策はローカルな問題だ」。私が本書を読んで感じた対比である。二酸化炭素はどこの国で排出しても大気に与える影響は等しい。水に国際価格は存在しない(輸送費のほうが高い)(P30,P32)、だから、一方で水が余っているのに他方で足りない状況が生じる。それにもかかわらず、水危機は「潜在的な影響が最も大きいと懸念されるグローバルリスク」(P2)と認識されている。気候変動はグローバルリスクの一つにすぎない(iv頁)。実は、これは生物多様性にも通じる。自然の恵み(生態系サービス)は局所的であり、地域の自然の健全さが、その地域の自然の恵みをもたらす。食料などの供給サービスは余所から輸入できるが、地域の生態系がもたらすきれいな水などの環境調整機能(調整サービス)はその地域固有のものである。ある場所で失った自然の代わりによその自然を守るというのは、厳密には代償措置にはなりえない。水や自然の恵みが世界の随所で損なわれることが、人間生活に重層的に負荷をかけるという意味で、これらはグローバルな環境問題なのだ。気候変動と水問題の対比から本書は地球環境問題を説く。したがって、水と同様にローカルな環境問題である生物多様性を考える上でも、重要なヒントを与えてくれる。水はローカルな問題だが、流域全体の統合的管理も可能(P197)という。たしかに、生態系管理では流域が一つの単位であり、地球全体どころか、流域全体の管理でさえ、結構難しい。
 「悲観論者は間違っているが役に立つ。楽観論者は正しいが、危険だ」(iii頁)。これが本書に随所に現れる著者の視点だ。とかく環境問題では影響が誇張された部分があると感じる読者には、この考えは説得力を持つかもしれない。「悲観論と楽観論の適切なバランス感覚を多くの方々に得てほしい」(vi頁)*1IPCC報告書などの受け売りでなく、著者自身の科学者としてのシニカルな視点も随所にある。よくわからないティッピングエレメントを前面に出して政策を左右するのは「おそらく得策ではない」(P168)というのも、その一つだろう。また、適応策の限界を強調している(P171)。逆に、極端現象の解釈については、強度の変化については一見小さいが、頻度の変化としては非常に大きい場合があり得る点に注意が必要(P155)と、気候変動問題の特徴を説明している。そのうえで、不確実性を理由に先送りするのは、「卑怯か無責任かやる気がないだけ」(P188)と、環境対策への行動の必要性を促している。
 次に、なぜ水が重要なのかを、水資源の性質から説き明かしている。「水はストックでなくフロー」であり、「水はなくならない」(P27)。その点で水は減る一方の化石燃料とは大きく異なる。ただし、補充量は使用量と無関係である点が、生物資源とは異なる。生物資源は親を残さないと、補充されなくなってしまう。「世界的には地震台風よりも風水害のほうが甚大な影響をもたらしている」(p.3)。産業活動が使う水の量は飲み水に使う量よりはるかに膨大である。「下流に行くほど(灌漑のために)水量が減る川がある」(P24)。海水は膨大だが、人間が使える淡水はそのごく一部であり、水質劣化も問題になる。そのため、温暖化はGHG(温室効果ガス)排出量にほぼ比例するが、水の使用量と影響は簡単ではないから、「LCA(Life Cycle Assessment)としての水フットプリントの限界がある」(P71)。飲み水が足りなくなるのは一番後である(P6)、しかし、渇きだけが水不足のリスクではない。近くに水がないと水汲みで労働機会が喪失される(P8)、その意味で、「水は文化のバロメータ」である(P15)。食糧生産のための水が不足しても食料は輸入できるから、飲み水さえ足りていれば、「水をめぐる紛争は深刻にならない」(P86)。しかし、食料輸入は確実に経済負荷になり、水不足の途上国ではより深刻な問題である。
 日本は自国の水需要の半分を海外の仮想水に頼っている。だから海外の水災害に敏感であり、仮想水の輸入相手の技術革新に努めることが日本の安定につながる(P106)。しかし、水に恵まれた日本が仮想水の大幅な輸入国である。これは欧米の人には意外に思えたらしい。ただしその輸入相手は先進国や水の潤沢な中進国であって、途上国ではない(P128)。
 また、仮想水は環境影響指標ではなく、水を大量に必要とする物資の交易が水需要削減に及ぼす効果の定量化である(P105など)と繰り返し書かれている。日本の仮想水の環境負荷を考えると、若干腑に落ちない。日本の場合は、国内が水不足というわけではないが、食料を輸入するなどして、輸入相手の仮想水を大量に使っている。しかし、日本の仮想水は、輸入品を国内で生産した時に使うだろう水の量で評価される。輸入相手の水資源をどれだけ逼迫させるかが重要なはずである。もともと、仮想水は水の乏しい中東諸国が自国で賄えない灌漑水を、食料輸入によりどれだけ他国に依存しているかを表す指標だった(P98)。日本も同様に海外の仮想水を消費しているとはいえ、日本の海外負荷を表わすために開発された指標ではない。
 日本に輸出するために農業先進国や中進国で多量の灌漑水が使われていても、これらの国の飲み水が不足するという意味ではないだろう。ただし、食料価格や穀物相場には影響するだろう。他方、日本の木材輸入は、輸入相手の森林面積を大きく減らすのに(他国とともに)貢献し、相手の生物多様性も大いに損なっているだろう。その意味では、日本が海外に与える負荷は、仮想水より他国の生物多様性や窒素フットプリントに及ぼす影響のほうが深刻かもしれない(ここで、仮想水貿易と水フットプリントの国際収支の違いが、よく理解できていないことに気付く)。生態フットプリント(EF)には生物収容力(Biocapacity=BC)という概念があり、各国ごとにEFとBCの差を取ることで、国ごとの持続可能性を試算できる(その精度については、私はあまり信用していないが)。しかし、窒素フットプリントや生物多様性フットプリントには、生物収容力に相当する概念がないようである。だから、各国ごとの持続可能性を議論することができない。
 ここで話は気候変動問題に移り、詳細に気候変動問題の特徴を紹介している。気候変動条約には「共通だが差異ある責任」「途上国など締約国の特別なニーズや事情への配慮」「気候変動の防止への予防措置、悪影響の軽減」「気候変動対策に不可欠な経済開発」が明記されていたという(生物多様性条約は…)(P140)。5つの包括的な懸念材料(固有性が高くサンゴ礁北極海;極端気象;影響の濃淡;総計した影響;大規模な不可逆的変化)と8つの主要リスク(小島嶼;内陸洪水;社会基盤倒壊;極端な高温;貧困層の食糧不足;灌漑水不足;海洋生態系損失;陸域淡水域の生態系サービス損失)【おそらくリスクの大きな順】(P164)を紹介している。
 そして、京都議定書では「法的拘束力」にこだわった(P141)。これは生物多様性条約の愛知目標とは異なる。愛知目標では数値目標も拘束力も乏しいことが批判されたが、ガバナンス論から見れば、必ずしも法的拘束力だけが国際協調を引き出す手段ではない。この辺は、Co-managementやグローバルコモンズ論を重視する人々と、保護主義者との違いだろう。気候変動でもパリ協定では、京都議定書のように数値目標を掲げるのではなく、各国の自主的な取り組みを重視しているように見える。なお、日本語では同じ目標でも、パリ協定はGoalであってTargetではない(P148)。SDGsも同様にGoalである。他方、愛知目標はTargetである。TargetとGoalは別の日本語を充てたほうが良い。協定と合意はそれぞれAgreementとAccordであり、これはかなり一貫して訳し分けられている。協定のほうが拘束力が強い。
 次に、科学者の役割を論じる。食料自給率が高いほうが良いかどうか、科学的には答えがない(P129、P117)。科学の役割は選択肢とその損得を示すことである(P146、P118)。
 ここで話は気候変動適応策に移る。ではなぜ適応策が議論されるかといえば、緩和策だけで温暖化を止めることができないからだ。エネルギー安全保障に直接関係のない適応策の推進は「建前の実体化」である(P193、P189)。しかし、別の側面もあると著者は言う。適応策により、気候変動にかかわる組織は開発全般にわたる貢献手段を獲得した(P190)という。現在は世界的な需要不足であり、気候変動問題は新たな需要を喚起する(P194)と、あたかも気候変動問題が公共事業のニューディール政策になぞらえた見解まで紹介している。因果関係はさておき、そのような側面を持つことは事実なのだろう。ヤマニ石油相曰く「石の不足で石器時代が終わったわけではない。石油が枯渇するずっと前に石油の時代は終わるだろう」(P150)。米国政府が京都議定書から離脱した時、排出権取引市場に乗り遅れることを懸念した米国企業がいたという話も聞くから、あながち絵空事ではないだろう。適応策と自然災害リスク管理の相乗効果の重要性(P170)を紹介している。他方、リスクを最小化するのではなく、ある程度受容する選択肢も提案している。たとえば、大洪水で浸水する地域を遊水地以外にもあらかじめ指定し周知してもよい(P182)。そもそも、もともと農業などは気候変動に適応して行う。これを「自律的な適応」というらしい(P111)。
 水問題も同様である。「水をすべての人の関心事(Business)にしよう」ということで、仮想水を輸入すれば生活できる人にとっても、水問題を身近な問題にできる(P125)。適応策は靭性のある世界の構築に役立つ(P200)。半世紀先はさておき、水問題は現代でも困っている人が(温暖化に比べて)大勢いる(P197)。水フットプリントをISO14046(P54)に採用するような動きも、企業や社会の取り組みを加速するだろう。
 なぜ、企業が地球環境問題に関心を持つかについても論じている。世界的な水管理(P45)企業の積極的な情報開示(P48)優良企業は100年後の自社の存続を信じ、割引率を低く考える(P49)。グローバル大企業は外部費用を内在化せざるを得ないという(P82)。割引率を市場原理(利率や物価上昇率)でなく、企業の寿命で論じる点が新鮮だった。これはR.Axelrod(邦訳『つきあい方の科学』1987年)が反復囚人のジレンマでの互恵的協調関係が成立する条件として、引き続き相手と付き合う確率をDiscount rate(邦訳では「未来係数」と訳した)と定義している点に通じる。長続きする企業ほど、先のことまで配慮するというのは理解しやすい。
 しかし、気候変動適応策にはもう一つの側面がある。適応策も、それを講じた地域のみが恩恵を受けるという意味で、ローカルな問題である。この点で適応策は緩和策とは異なる。そして、共有地の悲劇と緩和策の類似点に着目し、最適なBest mixが個々人の最適解とは異なる場合がある(P185)。これは私がS-14で述べたことでもあるが、各国にとっては、緩和策を他国が行い、自国は適応策を重視することが、自国の利益になる。どの国もそう考えれば、緩和策は全体の利益を最大にする解に比べてなおざりになる。
 適応策の効果は、緩和策以上に不確実性を伴う。気候変動の適応策では順応的方法が有効とされる。英語だとややこしい(P180)。Adaptive managementを「順応的管理」と訳したのは鷲谷・松田(1997)である。「緩和策に順応的管理が有効」なら大混乱だが、それに比べれば、英語でもそうでもないだろう(実は、環境影響評価で用いるMitigationのうちの代償措置は気候変動の文脈で言う適応策に近く、これは英語ではさぞややこしいだろうと思う。まして、日本語でミチゲーションといえば通常は代償措置を指す)。
 最後に、本書は格調高く、持続可能性という概念そのものに対する著者の持論が述べられている。健康のために水、食料、エネルギーを使う努力もまだ必要(P206)。持続可能な開発目標(SDG)から、気候変動も社会、経済、環境の3者の持続可能な開発の枠組みの中で進む(P210)。持続可能な開発は究極の目標ではなく(P210)、手段であり、究極の目標は人類の幸福である。その意味で、持続可能な開発(Sustainable development)でなく持続可能な社会の構築(本書には出てこないが、著者の言葉でDevelopment of Sustainability)を指向することが重要(P218)と締めくくっている。
 ただし、いくつかわかりにくいと思われるところもあった。安井至さんの書評に、専門的すぎるというような指摘があった。途中までは平易に描かれているが、たとえばWFNの取り組みの批判的紹介(P74)はあとで書いてよかったと思う。まずは筋の通った説明を聞いてから専門家どうしの議論を説明するほうが、読者にはわかりやすいのではないか。同様に、仮想は水でなく貿易にかかると読める説明(P87)があったが、後述の定説と異なる自説ではないか。これは後で少し混乱した。また、統合的水資源管理という言葉が英語と日本語で意味が違う(P172)というが、それほど違うようには見えなかった。私のほうが読み足りない点は、お許しください。

*1:6月2日18:46.2行上の赤字をやめてこちらを赤字にします