安部首相の突然の辞任を見て、「Feasibility」という言葉が思い浮かんだ。「実現可能性」とか「事業採算性」などと訳される。要するに、できることかどうかということである。
彼は「2050年までに温室効果ガス排出量を半減させる」ことを外交の場で主張し、インドを説得したことを「成果」としていた。どこから「半減」という言葉が出てきたのか私は首をかしげた。数値目標は数字の積み重ねによって成り立つ。根拠のない数字を掲げても、後で自分の後継者が困るだけである。半世紀後のことなど気にかけずに空文句を言ったなら、それはただの無責任である。京都議定書の数値目標を、日本はほとんど達成できるめどが立たない。その点で数年後に日本が窮地に立たされることは目に見えているのに、遠い先の目標を率先して掲げたことを自慢している。安部首相の思考回路がどうなっているのか、よくわからなかった。
しかし、今回の突然の辞任、その前の「職を賭す」発言で、わかった気がする。今の政権は、首相はもちろん、それを支える参謀たちも含めて、まったく算盤をはじかずに政策をたてていたらしい。「背水の陣」が見当外れで、野党説得に逆効果だったことはすでに多くの評論家が指摘している。首相もその参謀も、誰も事前にそれを指摘しなかったのだろう。その点で、首相は「裸の王様」だった。それを指摘されて、あっけなく潰れてしまった。しかし童話でも、王様は裸と気づいても、最後まで行進し続けたのではないか。それが王様の務めではないか。
フィージビリティにはいろいろな側面がある。技術的に可能かどうか、経済的採算性に耐えうるかどうか、法律的に可能かどうか、社会的に合意して実現できるかどうか。すべてが揃わなければ実現できない。
誰もが当然のようにできると思うことだけをやったのでは、大したことはできない。難題を解決するには、一件不可能なことを、その困難を一つ一つ解決して、実現することが大切だ。一件不可能なことを可能にするのが指導力とも言える。しかし、そのためには、決意だけでなく、客観的根拠が必要だ。
この機会に、ぜひ、フィージビリティという言葉を覚えてほしい。これは政策の善悪のことではない。できることかできないことかということである。