水俣病の時代ならいざ知らず?

Date: Fri, 2 Dec 2005 09:54:52 +0900
環境倫理研究会の皆様【中略】
 水俣病の時代ならいざ知らず、いま、「環境問題や開発計画に対する市民側の問題提起や抗議・反対運動」を「科学の権威」を利用して押さえ込むということが、どれほどあるのでしょうか?私は幸せな人間で,あまりそういう場面を知りません。どなたか具体的な最近の事例を教えてください。事業者(行政)が組織した有識者検討会がお墨付きを与える場面はまだあると思いますが、本当に科学的にも問題があるならば,市民に同調する科学者はほとんど必ずいるのではないですか?さらに諫早湾のようにマスコミで騒がれているようなものは、すでに「権威」を報道が批判しているので,権威はないと思います。
 科学の厳格性を「利用」して押さえ込むことはあると思います。つまり、反対の根拠が科学的に不十分であるとして退け、結果的に「開発」を認めるという行為です。他の場面では予防原則を適用して対策をとる程度の根拠があるものを,別の場面で対策をとらないことはよくあるでしょう。私も予防原則の「乱用」には批判的なので、市民から是とする側の人と見られることもあると思います。しかし、これは「権威を利用して押さえ込む」こととは違うと自分では思います。【後略】

Date: Fri, 2 Dec 2005 18:54:48 +0900
松田です

ところで、松田さんは、質問を提起されたとき、「水俣病の時代ならいざ知らず、、、、」と言っておられますね。意地悪な質問、という訳ではなくて、松田さんくらいの学者がどのような理解とイメージをもっておられるのかに、大変関心がありますので、是非教えてください。

 おー、やられました。一本負け。
 私は直接水俣病のときの事情は知りません。ですから、私の認識が正しかったとは限りません。飯島伸子さん【】に頂いた「環境社会学のすすめ」のPP149-151あたりにかけて、中央の財界や学者が地方の学者たちの発言を頭から否定する行動に出たことにも,技術雑誌がこのような権威主義的な記事を掲載したことにも・・・現地・地方の医学・医療関係者の研究成果を中央・首都圏の関係者が高飛車に否定する関係も顕著でした」とあります。私はこの認識でした.
 ところが中西準子さんの文書では「水俣病の例からも、かくも幼稚な予防原則を導き出すことはできない。水俣病は当初は伝染病と考えられた。やがて、工場排水が疑われ、熊本大学研究班は、マンガンが原因であると発表、つぎはセレン、さらにタリウムと変わり、最後に水銀に到達した。伝染病と思われた時点で、隔離するのがよかったか、マンガンと発表された段階でマンガンの禁止に踏み切れば良かったのか、もしそのようなことをしていたら、水銀を追いつめることはずっと遅れてしまったに違いない。」とあります。(新潮45掲載
 この原因の変遷は飯島さんが紹介されたものと符合しています。中西さんの文書を読むと、熊本大学の最初の主張は間違いで、その段階で中央が否定したのは権威的だったかもしれないが,【否定した態度自体は】間違いではなかったのかもしれませんね。そうだとすれば、今回の例示に水俣病を出したのは不適切だったかもしれません。ごめんなさい。
 今でも、「市民の味方」になる科学者が,その学会で学者としての実力を認められ、名声を得ているとは限りません。昔は、そうでない人が圧倒的に多かったでしょう(物理学者は、原爆の影響からか,著名な人も市民の味方が多かったかもしれません)。権威ある人が学問的実力もあるかどうか、市民と権力のどちらの味方にな【りやすい】かは、学問分野にもよるでしょう。
 今、生態学も大きく変わろうとしています。端的に言えば、アメリカの財力に世界中が押し流されつつあるように思います。生物多様性の国際研究体制に多くの資本が出資しているのは,単なる慈善行為ではないと思います。
Date: Sat, 3 Dec 2005 17:33:38 +1200
○○様、皆様 お返事ありがとうございました。
中西準子さんの水俣病の問題の理解は間違っています」というお返事が来るところまでは「想定内」でした。ただし、どちらが正しいかはわからないので、公的な場で、中西さんと直接議論していただくほうがよいと思います(すでに批判されているかもしれませんが)。中西さんも軽々しく言っているとは思いませんし、少なくともこの問題については彼女にも説明責任があると思います。【】
 少なくとも、よく知らないで「水俣病の時代ならいざ知らず」と【私がメール上で】書いたのは軽率だったと反省しています。
 【市民の側の学問的主張を中央の権威が「稚拙」として否定した例に挙げられた】吉野川第十堰改築問題については、いま知っていそうな人に聞いています。要は、本当に「稚拙」だったかどうかがまず問題です。それは、改築への政治的賛否とは別のことだと私は思います。【】
 事情を知らない過去のことですから、私が公的に言及すべきことではありませんが、【・・・水俣病の】当時は予防原則も認知されていない時代であり、証拠が固まる前に記者発表したとすれば、そして結果的にその説が間違っていたとすれば、発表した科学者が批判されるのは当然だと私は思います。
 【・・・さまざまな仮説を】追求するのは当然として、記者発表してもよいとはいえません。どんな記者発表をして、どんな報道をされたかを知らないとわかりませんが、科学者の本意ではない不適切な報道だったとすれば、失敗は1度だけですむはずです。

Date: Sun, 4 Dec 2005 14:51:19 +1200
【】予防原則がなかった当時では、一般論としては現在よりもさらに厳しく、実証を得てから社会に向けて発表すべきだったと思います。その意味で、まだ仮説の一つの段階でマンガンなどの物質まで言及したとすれば、批判のそしりを受けたでしょうし、その批判自体が不当だとは私にはいえません。
 しかし、「実際に明確な患者が存在し、原因の解明が緊急の課題として存在していたという時代であった」中で、科学者が手探りで対応を考えていた点を考慮すべきでしょう。謬説を記者発表したことが「対策を立てない理由」や責任逃れの口実にすべきではないことはいうまでもないことです。水俣病という事例のいつの時点のどの対応が「権威による正論の否定」にあたるかを明記しないといけないと思います。「水俣病の時代ならばいざ知らず」はやはり撤回させてください。もっと典型的な事例を挙げるか、より具体的に事例を特定したほうがよかったと思います。
 科学者は結論を先に決めずに、方法論と評価基準を決めてからデータを解析するものです。内心はともかく、必ずそう説明するはずです。そして、実際にデータを見てから客観的に評価しようと努める筈です。だからこそ、科学者同士は理性的に議論できうるのです。政治的に正当な主張であっても、その根拠が科学的に正しいとは限りません。科学者は結論で評価するのではなく、根拠の客観的妥当性で評価しあうものであり、その不備を指摘したことが「権威」とか「迫害」にあたるとはいえません。
 ○○さんが指摘されるとおり、中西さんは水俣病の事例を「中央が学界の権威をかさに否定したかどうか」を論じているのではなく、予防原則を批判する根拠として論じています。
 「水俣病の例からも、かくも幼稚な予防原則を導き出すことはできない。水俣病は当初は伝染病と考えられた。やがて、工場排水が疑われ・・・た。伝染病と思われた時点で、隔離するのがよかったか」という点は○○さんの指摘を経てもまだ生きていると思いますが、それ以外はご指摘どおりかもしれません。また、仮想的に現在似たような事件がおきたとして、おそらく伝染病説によって隔離しようとは、「予防原則」論者でも、隔離によって真の対策に結びつくとは思えないと判断するかもしれません。ただ、似たような誤った対策は現在でも生じ得ると思います。【】
 原因が特定できないことを理由に有効な対策を立てないというのも間違いであるという主張に同意します。そんなことをすれば、漁業管理などできません。ただ、不適切な記者発表が口実に使われたということでしょう。
【科学というのは、常に権威や定説との闘いです。木村資生の中立説も、最初は学界の異端児で、論文を投稿してもまともに評価されなかったといいます。私も進化的安定性の概念に異論を唱えたときは、共同研究者のPeter Abramsを説得することに成功したものの、その共著論文*1は1992年頃方々で却下され続けました。こんなに却下され続けた年は初めてだとPeterに愚痴を言われましたが、歴史を変えるには労力がかかると言うしかなかった。今では皆認めてくれています。それを迫害されたといっても仕方のないことです。説得するしかありません。】

*1:Abrams PA, Matsuda H, Harada Y (1993) Evolutionarily unstable fitness maxima and stable minima in continuous trait values. Evolutionary Ecology 7:465-487